有機栽培&無農薬の田七人参「白井田七」の開発秘話⑤白井博隆の半生

白井博隆、土木設計事務所の日々

白井博隆は、1963年1月2日。

長野県佐久市で白井家の長男として生まれる。

中学の頃から数学の方程式が解ける明快さがで好きで、逆に国語が苦手でした。

国語感想文では0点、どうしたらとれるの(笑)

白井博隆は、得意の理数系を生かして東京の土木工学の学校に進みます。

20歳の時に、地元の長野県に戻ってエンジニアとして、設計事務所に就職をします。

社会人になった矢先。

直属の上司の課長が、ストレス、過労で亡くなりました。

もともと忙しい設計事務所が、どんでもなく忙しくなる訳です。

1980年代当時はバブル最盛期。

高速道路を含めた道路の新設工事、トンネル工事、公共事業など測量設計の仕事が次々にはいってきた時期でもありました。

ひと月の残業時間が、休日もなく180時間とか200時間の日々。

現在はコンピュータでのCAD設計ですが、当時は手書きで手計算があたり前、何十倍も時間がかかっていました。

白井博隆、土木事務所退職

忘れもしない秋の気配を感じる9月中旬。

設計図を描いた手を止めて、しばらく外をながめていました。

ふと、自分はいったい何をやっているのだろう、このままの人生でいいのかな?

と疑問が湧いてきて、自分の可能性を試せる仕事があるのではないかと考えるようになったのでした。

そう考えるともう止まりません。

次が決まっているわけではないので退職することを引き留められましたが、最後まで退職の気持ちは変わりませんでした。

株式会社アドバンス設立

いったん東京の知り合いやお世話になった人を訪ねたり、さまざまな事務所に出入りするようになりました。

ただ結局1年で地元に戻り、1991年株式会社アドバンスを設立。

設計にこだわる必要がないので、大企業や広告代理店と軽井沢でのイベント、店の運営をはじめ、デパートなどでの物産展の企画、別荘の開発設計など。

ちょうど運よく1998年に長野で冬季オリンピックが開催され、開発事業で大忙しの日々でした。

わずか2年で膨大な収益をあげたアドバンスは、その収益で人脈を広げるために東京青山への進出を決めます。

1992年東京営業所開設、自分の可能性を存分に試せる田七人参「白井田七」に出会うまであと少し。。。

白井博隆、30歳の春でした。

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参考文献引用:著者 田中泰子 
       白井博隆 田七人参ものがたり

  • 記事を書いた人

    松本哲也

    大学を卒業後、広告会社で30年間勤務。営業、制作、業務管理の取締役を経て退職。2012年に有機栽培&無農薬の田七人参「田七堂」を設立し、「田七堂 免疫研究センター」を稼働。事業のかたわら、整骨院、整体院で年間2000人の施術をおこないつつ、人々のカラダとむきあう。その後、カラダだけのアプローチでは健康にはなれないと悟り、心理カウンセラーとしてココロへのアプローチをおこなう。有機栽培&無農薬の田七人参の大いなる自然のパワーに惹かれ、ココロとカラダと自然の完全なる調和を目指して活動中。